CoRoNano

Continuation of RO(reverse osmosis operation) at the nano-level

大型の台風22号に警戒してください。そして、台風15号の報道されない被害状況について。

大型の台風22号が発生しています。気をつけてください。

www.msn.com

 

 

 

先月発生した台風15号の時には、記録的な大雨でとても大きな被害があったにも関わらず、大手メディアはそれを報道しなかったということが問題になっています。この時は、”「3日後に迫った安倍元首相の国葬のニュースで持ちきりだったから」(台風15号で自宅が浸水「被害額1000万円」の静岡市40代夫婦「報道されない」 - ライブドアニュースより)”とも言われています。今後も同じようなことが起きるかもしれません。同じ日本で、知らないうちに、大変なことが起きているかもしれません。自分が、その地域の住人になることも十分あり得ます。身近な人たちと協力することが、これまで以上に大切になってくるかもしれません。

 

関連する記事をいくつか掲載させていただきます。

www.j-cast.com

 

news.livedoor.com

(以下、上記記事より一部引用)

◆報道されない災害の辛さ

 9月24日、台風15号の接近により記録的大雨となった静岡県静岡市。7つの地点で観測史上最多の雨量を記録し、断水は6万戸、そして5393棟の住宅が浸水した。

 これだけの被害があったのにもかかわらず、当初は全国的な報道はほとんどされなかった。その理由の1つとして、「3日後に迫った安倍元首相の国葬のニュースで持ちきりだったから」ということが挙げられる。1ヶ月経った今でも、これだけの被害が出ていることを知らない人も多いだろう。

 

news.yahoo.co.jp

(以下の動画は、上記記事より引用。)

youtu.be

 

youtu.be

 

 

 

地元メディアは伝えていたようなのですが・・・。動画をいくつか掲載させていただきます。

youtu.be

 

youtu.be

 

今なお、生活再建に向けた支援が続いているようです。

youtu.be

 

www.shizuoka-shakyo.or.jp

 

 

過去にも同じようなことは起きています。

参考になる記事をいくつか掲載させていただきます。

www2.nhk.or.jp

(以下、上記サイトの動画説明文より引用)

愛知県半田市には、日本最大の軍用機メーカーだった中島飛行機の工場・半田製作所があった。総面積270万平方メートル。従業員2万9千人。部品工場から滑走路まで完備した施設では、攻撃機「天山」や偵察機「彩雲」が一貫生産によって、1400機が製造されていた。

日本の戦況が悪化し、熟練工が戦地に次々と送られると、航空機増産の使命は「学徒勤労令」によって10代の少年・少女たちに課されることになった。まったく経験したことのない航空機の製作。しかも労働は長時間にわたり一月の勤務が300時間を超えることもあった。

さらに「過酷な運命」が工場で働く学徒たちを襲った。
昭和19年12月7日。午後1時36分、マグニチュード7.9の東南海地震が発生。死者・行方不明者、1223人にのぼったこの震災で最大の犠牲者を出したのは中島飛行機半田製作所だった。工場の倒壊による死者は、学徒96人を含む153人にのぼった。

軍用機の工場に犠牲者が集中した原因の一つは、建物の「構造」にあった。工場は最新鋭機の部品を作る重要施設で、機密を守るため出入り口が特別な設計になっていたことが、避難を妨げたこと。さらに、もともと紡績工場だった建物を軍需工場に改造する際、飛行機を作る空間を確保するため、邪魔な柱を切り落としたことが工場自体の強度を著しく弱体化し倒壊を招いたことがあげられる。

国は軍需工場の被害がアメリカに知られることを恐れ情報操作を行った。新聞は地震発生の事実を伝えるのみで具体的な被害には一切触れず、被災地では学徒たちに対して厳しい箝口令がしかれた。

東南海地震がもたらした悲劇が明らかになったのは、戦後十数年を経た後のことだった。

 

www.risktaisaku.com

(以下、上記記事より一部引用)

昭和19年(1944)12月7日の昭和東南海地震翌20年(1945)1月の三河地震は、軍部によって報道管制が敷かれ完全に隠ぺいされた。当時、日本は太平洋戦争の最中であり、しかも敗色が濃厚となっていた。軍部は軍需工場の被害状況などの情報が連合国に漏れることを恐れ、情報を統制した。新聞・ラジオ報道を禁じたのである。昭和東南海地震は翌8日がマレー半島侵略3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙1面トップは、いずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)。言論・報道の自由などどこにもなかった。

地震に関する情報は、3面の最下部のほうにわずか数行触れただけで、具体的な被害状況は一切伝えられなかった。被害を受けた中部地方各地の住民や、学徒動員され愛知県半田市中島飛行機の工場で働いていた学徒らには、被害について絶対に口外しないように、とする戦時統制に基づく通達によるかん口令が行政側からまわった。そのために、周辺や他の地域からの救援活動もなく、被災地は孤立無援に陥った。

 

bohjingaku.com

(以下、上記記事より引用)

第二次世界大戦の最中、日本は民間向けの天気予報を制限し、具体的な報道を行わない様にしていました。
理由は、天気予報で得られる情報は軍事作戦を行う為にも重要な情報だったからです。
例えば雨が降るかどうかという予報だけでも戦闘機や爆撃機が飛ばせるかどうかに繋がる重要な情報でした。

その為に1942年8月27日に上陸した台風16号・周防灘台風では十分な注意喚起が行われず、山口県を中心に約1,158名もの死者行方不明者が出る事態となりました。
台風により起こった高潮は関門海峡で4.6メートルもの高さを記録し、沿岸部の家屋が海水に飲み込まれて大きな被害を出しました。

更に1943年9月18日から21日にかけて台風26号と秋雨前線により連日300~500ミリもの降水量を記録した集中豪雨が降り、島根県を中心に河川の洪水が発生ししました。
このとき、島根県だけで448名もの犠牲者が出ました。
大分県や宮崎県も最大900ミリに届く降水量がたった一日で降った為に、河川の氾濫や土砂崩れによる犠牲者を出しました。
この災害での犠牲者は全体で970名に及びました。

(中略)

鳥取地震」は1943年9月10日に発生したマグニチュード7クラスの地震で、関東大震災以来最大の地震となりました。
この地震の犠牲者は1,083名に及びますが、その約65%・702名が女性でした。

 

(中略)

翌年1944年12月7日には紀伊半島沖でマグニチュード8クラスという「昭和東南海地震」が発生しました。

(中略)

さらに約1カ月後の1945年1月13日にも三重県三河湾マグニチュード6.8クラスの「三河地震が起こります。
これは「昭和東南海地震」に連動して起こった地震と言われ、死者行方不明者は2,306名にものぼりました。

しかし士気を保つため報道管制が敷かれ、正確で詳細な情報は現存していません。
救援活動もほとんど行われませんでした。

(中略) 

第二次世界大戦中に起こった台風や地震などの自然災害に共通しているのは、日本軍及び政府による情報統制により多くの情報が失われている事です。
戦後、1946年12月21日に再び同じ地域で起こった「昭和南地震」では1,330名もの犠牲者を出したものの、震源発生地の情報や震災前後の人々の様子が記録として多く残されています。
鳥取地震・昭和東南海地震三河地震昭和南地震を合わせて大戦前後における4大地震と一括りにされることが多いのですが、災害に対する対応は戦中・戦後で全く違うものでした。

 

こちらの動画も参考になります。

「人工地震で日本を降伏させる」...?第二次世界大戦で計画された大地震発生の闇

youtu.be

 

 

まとめ。災害は人工的に引き起こされ、被害状況は国の都合によって隠蔽される。