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Continuation of RO(reverse osmosis operation) at the nano-level

緊急事態宣言とロックダウンの違い

 

緊急事態宣言とロックダウンの違いについて書かれた記事がありましたので、掲載させていただきます。ロックダウンを法制化すれば、ワクチン接種の有無に関わらず、国民全員を家畜にできるのではないでしょうか。そして、知らない間に大量の移民(中国人)を移住させることができるのだと思います。

 

 

gendai.ismedia.jp

 

以下、上記記事より引用。

2021年9月29日の開票に向けて自民党総裁選が始まっている。

その中で、河野太郎氏と高市早苗氏が「ロックダウン」の法制化の必要をあげている。岸田文雄氏も前向き野田聖子氏のみが否定的な立場である。

 

【参考記事】日本人モドキの河野太郎と高市早苗「ロックダウン」の必要性を訴え、日本経済を破綻させ、中国人=李家による日本乗っ取り加速へ | RAPT理論のさらなる進化形

追記:上記リンク記事を参考にされる際には、次の動画の内容も理解した上で参考にされることをお勧めします。→39:誘導する時は正義の仮面。Qアノン・レプタリアン・ラプト理論・Apple・洗脳技の共通点/ユジンの放送 - YouTube

 

(中略)

そして、これまでロックダウンに終始否定的であった自民党安倍・菅政権は、この面においてなお正常な政治政権であったということができる。

ロックダウンとは政治の異常化であり、異常な政治がなせる技であるということを、ここで説いておきたい。

 (中略)

「ロックダウン(lock down)」とは、そもそも錠を下ろすことである。

壁があり、その向こうからこちらへと出られないよう扉を閉め、鍵をかけること。それがロックダウンだ。

(中略)

感染者であるなしにかかわらず、自宅なり収容所なりに閉じ込め、人々が外に出ないよう行動を制限する。

市民の行動を統治者が隔離・監禁し、感染拡大を防ぐこと。これがロックダウンである。

ところで、現在日本で運用中の緊急事態宣言も、同じように、政府が市民の行動に抑制を求めるものである。

それ故、ロックダウンを、緊急事態宣言をただ強化するくらいのものと解している人がいるようだ。

が、それは全くの理解不足。両者は全く異なる次元のものである。

緊急事態宣言はあくまで要請である。人々をどこかに閉じ込めようというものではない。必要があれば私たちは出かけていき、誰でも人に会うことができる。

これに対し、ロックダウンの法制化とは、この行動の必要性の判断を政府が行い、個人の行動を強制的に制限することである。

緊急事態宣言下において、私たちは例えば家の中に閉じこもっている。が、鍵は私たちの手元にある。私たち自身で扉を開け閉めできる。

これに対しロックダウンとは、その鍵を政府がもつということである。

扉を開けて勝手に出てくる者は、鍵を勝手に開けた脱走者である。政府はその脱走者を捉え、収容し、処罰を加えることができる。

壁があり、扉があって、鍵がある。ロックダウンと緊急事態宣言では、その鍵を持つ者が違う。このことで何が起きるだろうか。

 (中略)

ロックダウンが実現されることにより、ただ家から出ただけ、親に会いに行っただけ、友人と対面で話したかっただけという者まで逮捕の対象になりうる。

いや、それどころか現実には次のようになるわけだ。

ある人が自宅に閉じ込められている間に具合が悪くなったとする。熱はないが感染したのかもしれない。

だが、病院に行こうと外に出たら警察に見つかり、自宅に戻されてしまった。「コロナの症状は認められない」と。

そのまま自宅にこもっていたら症状は悪化し、ついに動けなくなる。一人暮らしで助けを求めても、ロックダウンで誰もきてくれず、自宅で息を引き取った――。

実はこの事態は、この緊急事態宣言下でもすでにおきていることである。

私たちが気がつかなくてはならないのは、ロックダウンというものは、本質的には個々の人の命を救うことを目的としたものではないということだ。壁の中に閉じ込めた人々を救う話ではないのである。

むしろ壁によって人々を出られないようにし、壁の中にウイルスを閉じ込める、そういう仕掛けである。

いま自宅での死亡を問題にしたが、この死は、ふだんであれば受けられるはずの医療が受けられなかったことで、行政・医療従事者側の過失が追求されるべきものだ(緊急事態宣言下ではそうなっている)。

だがロックダウンのもとでの死には、政府の責任はない。何かが起きれば(それはウイルス感染に限らない)、それはコロナのせいであり、「自分の命には自分で責任を持て」ということである。

むしろ感染抑止にとっては、感染者が自宅で孤立死してくれることこそが好都合ともいえる。

個々の死を防ぐためではない。国家として全体の秩序を維持するための仕掛けがロックダウンである。

 (中略)

いやしかし、ロックダウンは海外では普通にやっている措置でしょう、海外でやっていることなのだから日本でもやるべきだ、すでに私たちはそういう事態に入っているのだと、今度はそんな反論が聞こえてきそうである。

(中略)

都市の壁は、日本には存在しない。壁はヨーロッパの社会の闇、政治の闇である。

(中略)

中世ヨーロッパ都市には、ユダヤ人を閉じ込めるゲットーがあった。

ゲットーの壁は、ある人々をその内側に閉じ込め、行動を抑制するためのものである(ただしその発端は、ユダヤ人自身の自己防御からだったともいわれる)。ゲットーは壁で区画を覆われ、朝晩その扉の閂が下ろされた。

こうした壁が必要とされた理由は、ユダヤ人の民族性、なかでもその宗教が、都市のマジョリティであるキリスト教徒にとって有害と考えられたことにある。ユダヤ人が他の都市住民と自由に交流できないよう、壁の中に閉じ込めた居住区がゲットーである。

しかし壁は設けても、ユダヤ人が都市の経済を成り立たせていたので、彼らの行動は都市にとっては不可欠のものだった。そこで鍵のついた扉で開け閉めをし、その交流を統制した。

(中略)

さて、ここで大事なことは、この鍵の開け閉めをするのは、内部にいる者ではなく、壁の外にいる者だということである。鍵を外部者に保有されることで、壁の中にいる者は、この鍵を管理している者に行動する権利を奪われることになる。

だが人間は生き物である。行動の制限は生き死にに関わる。鍵を開けてもらえなければ、それだけで死ぬこともある。ロックダウンとは、鍵を開け閉めできる人間に、まさしく生殺与奪の権を握られるということだ。

2021年3月に名古屋の入管でスリランカ女性が死亡した。収容された際、体調悪化を訴えたが、医師の受診が認められずにそのまま亡くなったのだという。

ロックダウンの法制化とは、ウイルス拡散防止という名目のもとに、同じようなことが国民全体に広く生じる危険をはらむものである。

これは当然人々の暮らしを変える。

だがここでさらにきちんと理解しておく必要があるのは、こうした装置の発動は暮らしどころか、暮らしの前提になる基本的な政治状況を大きく変えるものだということだ。

(中略)

ここで生じる政治状況とはこういうものである。

ロックダウンで、私たちは自宅に閉じ込められる。一人で、あるいは少人数で。

扉の向こうには監視者がいて、私たちが出てこないかを監視している。

閉じ込められているので、私たちには外の様子は分からない。

テレビ報道やネットを通じて分かるだろうなどというのは甘い話である。報道関係者も含め、市民はすべてロックダウン下にあるのだから。

手元に入ってくる情報が何をもとにしていて、どこまで正確で、どんな意図を持ってもたらされているのかを私たちは知ることはできない。

外に出れば捕らえられ、そのまま当局に収容されれば、自宅の中では認められているふつうの自由さえ奪われてしまう。

場合によってはそのまま、自宅とは違う別の場所で、誰にも会えずに死ぬことになるのかもしれない。

それが嫌なら私たちは、何が現実に起きているのかを知ることを諦めるしかない。

(中略)

ロックダウンのもとでは世論は形成されない。

国民は議論も反論もできない。異論は容易に廃され、ロックダウンが明けるのも、政府に対する不満が収まったのを見計らってということになる。政権交代などはもちろんない。

9月上旬に事実上政権の座を失った菅義偉首相は、官房長官として安倍晋三政権を支えていた時期から、自己の権力の温存のみを考え、あらぬ手まで用いていた。

それが自らの命取りにもつながったのだが、その彼さえ取り合わなかった、政府の権限を極限まで強める手段がロックダウンである。

海外でも、このロックダウンがもっているダークサイド(暗黒面)はよく知られていて、例えばドイツがそうであるように、その実施は常に慎重な物言いで進められてきた。

必要悪なのであり、本来やってはならないものという自覚をもって実施しているのがヨーロッパのロックダウンである。

この記事でも、ユダヤ人のゲットーや入管の例を挿入してきたことから分かるように、緊急時の行動制限という問題には在留外国人や異国間・異民族間の人の出入りが深く関係する。

ヨーロッパで今回のように緊急時に強い行動制限がかけられるのは、日本と違ってすでに国境を越えた人の移動が行われ、様々な民族、文化、価値、宗教をもつ人々が互いに交流していることによる。

異民族・異文化の間では、緊急時において互いの関係に急速に亀裂が生じることがある。お互いに疑心暗鬼になり、平時には保たれていた秩序が一気に崩壊する危険が高まる。

そのリスクを回避する手段として、壁と閂が、人々の移動や交流を制限する装置として発明され、実施されてきたということなのだ。手段の善悪はともかく現実として。

そして、そもそも壁と閂が家畜を飼うのに必要なものであり、牧畜を背景にして生まれてきた統治装置だということをここで想起しておくのもよいだろう。「ロックダウン」はヨーロッパの人々にとっては、どこかで身近な必要悪なのかもしれない。

(中略)

だが、ヨーロッパの状況を見て私たちがまず最初に確認しておかなくてはならないのは、むしろ次のことである。

ロックダウンを実施したら感染拡大が防げるのかといえば、そんなことはないということだ。

ロックダウンを行ったヨーロッパやアメリカで、コロナは依然、猛威を振るっている。

(中略)

ロックダウンを実施していないにもかかわらず、日本の感染者数はまだ決して多くはない。

一方でロックダウンをしても感染拡大が防げない国があれば、ロックダウンをかけていないにもかかわらず感染拡大が防げている国がある。

(以下省略)